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琉球王朝とは

首里城を政治や貿易そして文化の中心に置いてた琉球王国は、1429年中山王の尚巴志が三山を平定したことで始まりました。
当時の沖縄には小さなエリアにそれぞれの支配者がいました。
徐々に勢力に変化がおこり大きく3つのエリアに分かれることになります。
北山、中山、南山にはそれぞれの王が出現し、それぞれが代表して中国を相手に貿易を行うようになります。
やがて中山王の勢力が増して北山を吸収し、そして南山も吸収したことで中国(当時は明国)より正式な国名を琉球王国と授けられ誕生することになります。
当時は明国における中華思想、すなわち世界を文明(華)と非文明(夷狄)に分ける考え
方が広まり、中国皇帝の臣下になれば中華の輪に入ることができると考えられていたため、
周辺国はこぞって朝貢国となり、琉球王国も同様に朝貢国の仲間入りを果たすことになります。
おかげで同様の朝貢の国々とも盛んに貿易を始めることになり、国力は大きくなっていきます。

中山王は遡ること2年前に龍譚の池を掘って庭園の整備を行っています。
この人工池を作る更に2年前には明国の冊封使が池をつくることを勧めていたのですから、明国は1425年の時点で中山王が三山を平定するであろうことが分かっていたのかもしれません。
併せて1428年に中山門、1429年には美福門を続けて創建しています。
来るべき琉球王として明国皇帝の使者を受け入れる準備を整えていたのかも知れません。

安定し栄華を極めていた中山王が治める琉球王国は、1453年に起こった王位継承の内乱~続き首里城が全焼してしまい、その後7代続いた王朝は崩壊します。
結果的には王位継承による混乱ですが、その原因は中央集権化を進めなかったことで、地方の実質的支配者が権力をもち、王朝政策の浸透に失敗したことが挙げられます。
6代目の王の重臣だった金丸氏はクーデターを興し7代目に代わって王位に就き、政権交代を果たしたのは1470年のことでした。
ここから第二尚氏の王統が始まり410年間19代に渡って続くことになります。
まず瑞泉門を創建し、続いて歓会門、久慶門と中国にならって整備を行っていきます。
ところが1494年に王家の菩提寺となる禅寺の円覚寺をつったことで、中国一辺倒の文化から徐々に日本国との結びつきが強くなったことが分かります。
1501年になると更に結びつきが強くなってきたことが伺える、玉陵という王家の墓が作られます。
日本独特の屋根である波風は城の天守閣や神社などに用いた形状で、玉陵の屋根にも同じ形式を用いて破風墓を建てています。
翌年には円覚寺の前に円鑑池を造り、首里場周辺の雨水が流れ込むように作られました。
また弁財天堂とともに海洋国琉球王朝の大切な神様として祀られることになります。
1519年には中央集権国家体制の一環として園比屋武御嶽石門が作られます。
各地にあった神を祭る御嶽に位をつけて、この園比屋武御嶽を聖地化していくことになり人心を集約していきます。
このあと龍樋、首里門(現在の守礼門)が作られ中国とも等距離の外交ができ、首里城周辺はますます整備されていきます。
同時に首里城に続く金城の石畳道で有名な真珠道が整備され、併せて防衛のため首里城東南の城壁を二重にして継世門を作り上げてより強固なものとします。
しかし1609年徳川勢に敗れて外様となった薩摩軍が琉球王国に攻めてきます。
結果として自治政府の道を歩むことになった琉球王朝は、1634年徳川将軍に使節を送り明国と日本国に対して二重の朝貢を行うことになりました。
このあと1660年と1682年、そして1709年にそれぞれ失火によって首里城は全焼することになります。
厳しい二重朝貢と3度の首里城焼失によって財政的にも厳しさを増してきた琉球王朝は、1754年中国の制にならって奉神門を改修します。
つまり1494年に日本国に舵を切った琉球王朝が、275年時を経て再度中国寄りの外交に舵を切り始めていきます
そして中国様式の首里城正殿の大修理が行われました。

ところが完成すると、1798年には最高学府として国学の設置を試みます。
琉球ではもともと身分の低い家柄であっても、学士(官生)に合格すれば中国の科挙制度と同様に採り立てていました。
ただし講義は中国の公用語を使って四書五経や唐詩合解などを習得させ、その後は中国に留学させて高官として任用されるなど、中国移民の多い地区が有利となり、高官は久米村(現在の那覇市久米)出身者が締めていたため、国学よって広く門戸を開くとしながら実は中国一辺倒の政治手法を改めていくことになります。
もちろん摩擦はあり1798年には反対していた久米村出身者の粛清を行います。
1801年に反対論を退けて国学は設置され、徐々に体制を変える動きが表面化してきます。
そして1853年、あのペリー提督がやってきて、日本を含む琉球王朝は激動の時期を迎えます。
結果は1879年に明治維新で生まれ変わった日本政府が首里城の明け渡しを要求し、450年続いた琉球王国は崩壊し沖縄県として生まれ変わることとなりました。
その後首里城は日本陸軍の駐屯地として利用され、時代は流れ昭和に時代まで進み終戦間際の上陸戦で壊滅的な被害をうけ事実上消滅します。
戦後は琉球大学の敷地として活用され、その後園比屋武御嶽石門、守礼門を復元します。
1972年に本土復帰しますが、1989年首里城正殿復元工事が着工されるまで戦後44年の歳月が流れていたのです。
一帯の整備のめどが立った1992年に首里城公園の一部が公開され、2000年に行われた沖縄サミットで周辺を含めた整備が完成することになります。
その後、首里城跡やその周辺は世界遺産として登録されることとなり、現在は琉球を代表する観光名所となっています。

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